カウンセラーが「人を助けたい」と思うのは間違いか?【臨床心理士・公認心理師の立場から】

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心理職の働き方

先日、質問箱でこんな質問をいただきました。

回答はしたものの、なんとなくスッキリしていなくてこのテーマをもう少し掘り下げたいな…と思ってブログを書いています。

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カウンセラーに「なる」動機としては間違っていない

カウンセラーは「対人援助職」です。

「対人(=人)」「援助(助ける)」「職(=仕事)」なので「人を助けたい」という気持ちで仕事に就くことには何ら問題はないはずです。

そもそも「人なんてどうでもいいぜ~」という人が対人援助職に就くとはなかなか考えにくいですから、「人を助けたい」という気持ちは対人援助に関わる人であれば、まぁ大体持っていると考えるのが自然です。

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カウンセラーを「続ける」動機としては難しいのでは?

助ける自分が強者になるということ

質問箱でも書いた通り、「助ける」とか「助けたい」っていうのは基本的に強者の言葉だと私は考えています。

「あなたを助けたい」と伝えた瞬間、「私の目にはあなたが『弱者』と映っていますよ」というメッセージになるだろうと思うのです。

弱者であるということを認め、「助けたい」と微笑みかけるカウンセラーの手を取り、「ありがとう」と感謝してくれる人もいるとは思います。

ただ、そういう人はそんなに多くはない…と私は感じます。

今の日本において、「助けの必要な弱者だ」と定義されることは「恥」や「惨めさ」を感じさせやすいです。

もちろん、社会的弱者であることが恥だとか支援を受けるのは惨めなことだとか、そういうことを私は考えていません。堂々と助けてもらう権利があります

佐藤セイ
佐藤セイ

助け合いができないなら「国」や「社会」として人が集団を形成する意味ないし…

ただ、少なくとも現代の日本では弱者を「自己責任」と責め、虐げ、苦しめている部分が多いと思います。

「助けたい」の暴力性

「助けたい」という欲求は、相手が助けに応じることで成立する、他者ありきの欲求だと思います。

しかし、相手にも意思がありますから、良かれと差し伸べた手を振り払われたり、唾を吐きかけられたりする可能性もあるのです。

アンパンマンはバイキンマンから村の人をせっせと助け、時には自分の顔を配り、村の人はそんなアンパンマンに「ありがとう」と感謝する…そんな世界として成り立っています。

しかし、アンパンマンの助けに対してカバオ君が「そんなの頼んでねぇよ偽善者が。とっととバイキン城潰せよ役立たず」とか言ってきたらどうでしょう?

お腹が空いたと泣くウサこちゃんに自分の顔を渡したら「それ美味しくないから嫌。別のがいい」と言われたらどうでしょう?

アンパンマンの「助けたい」という気持ちは、

「こんな外道ばかりの村は破壊した方が人助けになる」

「こいつらには反省が必要だから一発アンパンチかましとくか」

というものにすり替わっていくかもしれないなと思います。

それもまた「助けたい」の実現です。

自分の「助けたい」という気持ちだけで助け続けられるなら何の問題もありません。しかし、大抵の場合には「助けたい」には何らかの見返りを求める気持ちがあるはずです。

もし見返りを求めないとすればボランティアとして「人助け」をする方法もある訳で、わざわざ「仕事」にするにはやっぱり報酬を求めているだろうと思うのです。

でも、カウンセリングに来る人は必ずしも「カウンセラーの言葉を何でも聞いて、『ありがとうございます』と感謝してくれる人」ではありません。

むしろ、先ほどのカバオ君やウサミちゃんのような人もいます。

そんな「素直に助けられてくれないクライエント」にもカウンセラーは支援を提供しなければなりません。

素直に助けられてくれないクライエントに対して、カウンセラーはこう思うかもしれません。

そんな歪んだ性格では社会で生きていけないから正してあげないと

※もちろん、もっと専門用語を使ってそれなりの「見立て」の形式が整えられるでしょうが。

「助けたい」という気持ちは「あなたのため」という大義名分で、簡単に暴力へと発展します

カウンセラーは身体的な暴力は行わないでしょうが、あまりにクライエントの尊厳を傷つけるような言葉をぶつけ、クライエントがそれに抵抗すると

「これは直面化という技法である」

「治療的に意味のある解釈を投与したがクライエントに受け止める力がなかった」

と意味づけてしまう可能性はあります。

カウンセラー本人は「クライエントを助けるために行っていること」と主張するでしょう。

決してごまかすためでなく本気でそう信じて疑っていない可能性さえあります。

そういう風に状況を定義できる権力が私たちには付与されています。いつもカウンセラーが正しくて、いつもクライエントが間違っている…私たちはそんな状況を簡単に作れます。

強者の「助けたい」は歪む可能性があるのです。

それは美しい大義名分を掲げて日本を良い方向へ進めようと考えた「連合赤軍」が、暴力革命の名のもとに罪なき人を殺し、そして自分たちをも破壊していったように。

かつて自身も障害者施設でスタッフとして勤務していた植松聖が、相模原障害者殺傷事件を「世の中のため」に起こしたように。

「助けたい」とか「他人のため」は、相手を弱者と捉え、「自分が正しく導く」という傲慢さをはらんでいるがために、ほんの少しのきっかけで「暴力」になると思うのです。

自分では「暴力」と気づかずに、最後まで「助けるため」「この人のため」「世の中のため」と思い込んだまま。

「助けられる側」に耐えられず「助けたい」になっていないか

「助けられる側になりたくない」から「助けたい」という可能性もあります。

カウンセラーに相談したい人は多くないのに、カウンセラーになりたい人はたくさんいるそうです。

私自身、「助けてもらう」ことは苦手です。

高校生の頃は本当に追い詰められていたけれど、児童相談所にも先生にもスクールカウンセラーにも相談できなかった。それは周りのみんなに「普通」と思われたかったし、自分自身も「まぁちょっとしんどいけど普通の範囲だよね」と思いたかったからだと思います。

「助けてもらう恥ずかしさ」に耐えられなかったのです。その代わりに「心理学を学ぶ」「臨床心理士になる」という道を選んだ側面があります。

佐藤セイ
佐藤セイ

まぁ大学院に入った後、「助けたい」と思っていた気持ちが、実は「助けてほしい」だったのに気付いて、しばらく地獄を見る訳ですが。

最近、「心はどこへ消えた?」で人気を博している東畑開人さんの「野の医者は笑う」では自分の心を癒すために「野の医者(不思議なヒーラー)」になる人たちが描かれていました。

野の医者に限らず、自分が傷を負っていて、その傷を癒すために、あるいは見ないために「助ける側」に回りたい人は少なくないように思います。

本当に「他人を助けたい」のか、それともクライエントさんから感謝されて承認されたり、自分の居場所や存在意義を見つけたりすることで「自分が救われたいのか」はよく吟味する必要があるんじゃないかなと思います。

終わりに

色々思いついたことを書いたので、あんまりまとまりがありませんが、私は「対人援助職」という言葉で大事なのは「職」の部分なんじゃないかと思っています。

要するにカウンセラーは良くも悪くも「ビジネス」であるということ。

最大の目的は「給与」であって、「助けたい」はサブ目的に留めておいた方がいいように思うのです。あふれんばかりの「助けたい」があるならボランティアでも寄付でもしたらいいし…。

差し出した手をクライエントが振り払っても「まぁこれでお金貰ってるしな」と思えば冷静になれる…かも。金額にもよるけれど。

「他人のため」はやっぱり続かないんじゃないかなと思いますし、ちょっとしたことで「恨みつらみ」に変わる気がします。

だったら「自分のため」の報酬(お金・技術向上など)を大事にした方が続けられるし、結局より多くの人を「助ける」ことにはつながるんじゃないかしらと、そんな風に感じます。

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