これは質問…なのかな?
ただ、「普通」や「常識」のような、自分が想定していた世界とズレる苦痛(=思いどおりにいかない)は多くの人が共感できることのように思うので、ちょっと取り上げてみます。
なぜ私たちは「普通」や「常識」を求めるのか
発達障害の「こだわり」から考える
このご質問を拝読して私の頭にぱっと浮かんだのは「発達障害のこだわり」のことです。(注:質問者さんが発達障害だ!という話ではないです)
私たちは世界を「認知」と「関係」によって把握しています。
ちょっと難しいですけど、「認知」とはモノを見て「こういうモノがある!」と把握できることを指します。そして、その上で自分と親密な「関係」を持つ人(家族など)からの「この道は安全だよ」「遊園地は楽しいところだよ」という情報によって、私たちは実際に自分が体験していなくても「この道は安全なんだ」「遊園地って楽しいんだ」と世界を捉えられる…と言われています。
なお、この考え方は下記の本「子どものための精神医学」を参考にしています。興味があればぜひ!!!
しかし、発達障害を持つと認知はできても、関係をうまく構築できません。
そのため、「道がある」のを認知できても、親密な関係に基づいた「この道は安全だ」という情報を信じるのが困難になります。
そうなると、自分が体験したことのない世界に飛び込むことが難しくなります。そして生じるのが「こだわり」です。
経験したことのない世界に飛び込むのが怖い。だから、いつも同じことをしていたい。
そういう感覚です。
個人レベルの「こだわり」≒コミュニティ単位の「普通・常識」
発達障害を持つ方のそういう心は「こだわり」と呼ばれて特別視されますが、自分にとって安心・安全なものを選びたい心は誰にでもあり、それが一般的には「普通」や「常識」と呼ばれるのではないかな?と思います。
ただ、発達障害を持つ方は個人レベルで「こだわり」を持っているけれども、そうでない人(うまい表現がない…健常者というのも何か違う気がして…)は、コミュニティ単位で「こだわり≒普通・常識」を持っているんだろうと思います。
「普通」や「常識」は生きていく上で、「これを守っていれば割と安全」というルールとして機能しています。逆にその普通・常識を守らないとコミュニティから弾かれてしまう場合もあります。コミュニティを危険に晒すからです。そのため、とても大切に扱われます。
ただ、問題なのは発達障害を持つ方の「こだわり」が他者になかなか理解されないように、あるコミュニティの「普通・常識」は、他のコミュニティでは理解されないことがある…ということです。
いただいた質問に立ち返ってみる
コミュニティが違えば「普通・常識≒文化」が異なる
質問者さんの「普通・常識」は、お母様との間ではとても大切なものとして扱われていますが、おそらく他の人にはその大切さは通じないのではないでしょうか。
それは質問者さんとお母様からなるコミュニティAと、質問者さんの思い通りにならない人たちのコミュニティBでは、違った「普通・常識」があるからだと思います。
コミュニティAの中で、自分たちの「普通・常識」について「大切だよね」と語り合うことはとても意義があると思います。自分たちの「普通・常識」を確認することはコミュニティの結束を高めるからです。
しかし、コミュニティAの「普通・常識」をコミュニティBに持っていって「これが普通なんだ!大切なことなんだ!」と主張しても「は?」という反応しか返ってこないかもしれません。
それは海外で「納豆は美味しい!」と主張しても、「腐った豆なんか食べたくねーよHAHAHA」という反応が返ってくるのと同じです。もうね、文化が違う。
文化が違うことにイライラしても仕方ないのです。
文化は理解できなくていいから否定しないことが大事
人と良好な関係を築くために必要なのは、文化を完全に理解し合うことではありません。
お互いの文化の理解できない部分を「それは悪だ」と責めないということです。
そして、相手が知らない文化を押し付けないということ。
かつて、大学時代に友人が机のはしにコップを置いたので「あ、そんなとこに置いたら『かやす』で」と言ったところ、「『かやす』って何?」と言われました。
もし、その時に「はぁぁ?『かやす』も知らんの~~~?!『こぼす』ってことやろぉぉぉ!」と言ってたら関係は崩壊していたでしょう。
逆に友人と掃除していたときに「そこ、ほうきで『はわく』からモノのけて」と言われたときに「は?『はわく』って何ぃぃぃ??」と煽っていたら、「お前しゃーしいな!!!」とキレられていたと思います。(ちなみにその友人は福岡の人で『はわく』は掃く、『しゃーしい』はうるさいということ)
基本的には自分の普通・常識を阿吽の呼吸で理解してくれるコミュニティに所属して安心感を得つつ、外部のコミュニティでは「そういう文化もあるんですね~」とニコニコしておくのがちょうどいいのかもしれません。
だから、自分と同じ普通・常識を分かち合えるコミュニティでお母様に陰口を言うのは、有効な対処法のひとつと言えるのではないかと思います。
「教養」の必要性
なお、自分の「普通・常識」を広げるために必要なのが「教養」です。最近では「実学」ばかりが重視される傾向にありますが、インターネットやSNSの発展によって、自分の見たい世界にばかりつながり、視野が狭まる現代において、あえて「教養」を得ることは非常に大切なように思います。
過去と現在、地域、性差、年代…ちょっとした違いで、「普通・常識」は大きく異なるのが見えて面白いな…と私は思っています。
まぁ、これも私にとっての「普通・常識≒こだわり」なので、質問者さんがどう感じて、どう受け止めるかは自由。
お母様と「なんだこいつ~」と言い合っても良いですし、「そういう文化もあるのか~」と思ってもまた良し…って話でした!
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