私たちは「言葉」に依存しています。
このブログもまさに「言葉」だけの情報伝達。
私自身の表情・声・姿勢なんかは届かない訳です。
もしかしたら、私はこのブログを布団に寝っ転がって「あぁー面倒くさいなー」と言いながら書いているかもしれないけれど、読んでいる皆様には伝わらないのです。ふふ。
それくらい「言葉」って実は情報が少ないのに、私たちは「言葉」に頼りがちです。

もっと面白い話が出来れば友達ができると思う

子どもが勉強したくなるような言葉かけはないものか
そんな「言葉」を求める人たちがカウンセリングにやってくることもあります。
でも、そういう方にとって本当に必要なのは「言葉」じゃなくて「信頼」なのかもしれません。そういうときには「言葉」はかえって邪魔になることも。
今回はそんなお話。
「言葉」と「信頼」が相容れない理由
想いのない「言葉」の薄っぺらさ
私は谷川俊太郎さんの詩が好きなのですが、「ことばのとおりに」という詩の冒頭は「言葉」とは何かを端的に表しているように思います。
読むだけでは美しいことばもただのもじ
しゃべるだけではりっぱなことばもただの音
谷川俊太郎「ことばのとおりに」より
言葉は「道具」でしかないのです。
その中身に何をこめるかは使う人次第。
誰もが知っている「桃太郎」でも、「どう伝えたいか」「何を感じてほしいか」という想いを持つ人は魅力的に語れます。でも、単に「読めばいいんでしょう」という態度では面白さは半減です。
「面白い話」や「言葉かけ」といった表面的な言葉の羅列法を考えるよりも、「何を伝えたいのか」を丁寧に検討した方が効果的です。
「信頼」があれば「言葉」の内容は重要ではない
私は「言葉」は「信頼」という土台があってこそ、その魅力を放つと思っています。
信頼していれば、多少言葉がヘタでも、「私のための言葉」と感じますし、一生懸命に込められた想いを読み取ろうとします。
一方が一生懸命に投げた言葉を、もう一方も一生懸命に受け取ろうとする。会話のキャッチボールが自然に生まれます。へたくそな投球でも一緒に笑い合えます。
しかし、信頼がない場合、どれだけ美しい言葉も、聞く側には「あなたが気持ちよくなるためでしょう?」「あなたの不快を解消するためでしょう?」と、白々しく響きます。
それが「私のためではない」と感じているからです。
だから、受け取ろうとしません。「私のための言葉」ではないからです。
どれだけまっすぐに投げても、受け取る側が逃げますから届くことはないのです。
「信頼」はどうやって築くの?
ラフメイカーを思い出せ~信じた瞬間裏切るあいつ~
さて、それなら「信頼」をどう築くか。
かの有名なBUMP OF CHICKENの名曲「ラフ・メイカー」をご存知でしょうか。
※歌詞はこちら
すごーく落ち込んだ主人公のもとに、主人公を笑わせるために突如現れたラフ・メイカー。
でも、そんな気分じゃない主人公はラフ・メイカーに当たり散らします。
しょんぼりして泣いても主人公を笑わせることを諦めないラフ・メイカーに主人公は心を開き始めたところで、ラフ・メイカーは急にいなくなってしまいます。
ショックを受けた主人公は叫びます。「冗談じゃない!今さら俺一人置いて構わず消えやがった!信じた瞬間裏切った!」
ところが実は…
まぁこんな歌なのですが、これをわざわざ書いて言いたかったのは、「信頼関係を作るには時間がかかる」かつ「裏切った瞬間、信頼は壊れる」ということです。
信じてほしい側:裏切らない
信頼を築くために、信じてほしい側はただひたすらに「裏切らない」ことを続けます。
これは簡単なようで難しいことです。
というのも私たちは「いい人でいたい」という欲望を持っているからです。
そのため、信じてほしいあまりに、「ちょっとしんどいかも…」と思いながら引き受けてしまったり、不快なことを我慢したりしてしまいます。
しかし、「自分」を超えた行動は長く続きません。いつか限界が来ます。
そして、その限界を迎えた時に、相手に「裏切られた!!」と思わせてしまうことは意外と多く見られます。
信じる側:「裏切られるかも」に負けない
信じる側もなかなか大変です。
「信頼関係」という言葉は素敵ですが、この関係は「いつか裏切られるかも」という破壊的な可能性をいつも含んでいます。
そして、裏切られるかどうかは実際に裏切られるまで答えがでません。
「信じてほしいなら、もっと○○して」と相手に要求し、相手がその通りにしてくれれば、一時的に「大丈夫だ」と思えるかもしれませんが、やっぱり「裏切られるかも」という不安はゼロにはなりません。
「どうせいつか裏切られるなら、信じない方が楽だ」という思考に逃げず、ずっと信じようとし続けることは結構苦しいことです。
信頼関係を持続させるのは面倒くさい
このように、信頼関係を持続させるのはかなり面倒くさいのです。
何か1つ言葉をかければ、信頼関係が築ける…なんて魔法のようなことはほぼ起こりません。
波長やタイミングが後押しして、ほんのわずかな言葉で、二人の関係が深いところまでつながることはあり得ます。それでも、「裏切られた」と感じることがあれば、やっぱり二人の関係は終わってしまうでしょう。
臨床心理士のカウンセリングの意味~「信頼」を築く~
カウンセリングは「信頼関係」を築くもの
このめちゃくちゃ面倒くさい「信頼関係を築く」という作業をひたすらやっているのが、カウンセリングなんだと思います。
また、カウンセリングの目的は「クライエントの主訴を解消する」ということになるでしょうが、その目的を達成する土台として「信頼関係」は欠かせません。
これまでお話ししてきた通り、信頼関係のない二人の間では「言葉」は上滑りしていくからです。
沈み込むような悲しみや糸が張ったような緊張感、溢れる怒り…そういったものを共に感じながら、そこから逃げない、つまり「裏切らない」ことを続け、ようやくカウンセリングの土壌が育まれるのです。ラフ・メイカーのように。
クライエントが悩みながらも問題を解消できないのは、「変化」のリスクが怖いから…というケースが多いです。
「どうやって変えればいいかわからない」
「自分にそんなことできない」
「変わったあとの周囲の反応が怖い」
そんなリスクをカウンセラーが一緒に抱えてくれると信じられれば、クライエントは主訴の解消のために行動できるようになるでしょう。
カウンセラーとクライエントの「対等」を目指す
臨床心理士になるための学びの中で「カウンセラーとクライエントは対等である」ということを耳にタコができるほど聞かされます。
しかし、最近思うのは「やっぱり対等ではない」ということ。
どうしたってカウンセラーの側に「力」は傾いています。そもそもクライエントさんは弱っている訳ですし、カウンセラーの背後からは、
・心の専門知識を持っている
・わざわざ申し込ませて足を運ばせる
・面接場所や料金の決定権がある
・「先生」と呼ばれる
といった「力」の匂いがどうしても醸されます。
もし、最初からクライエントさんがカウンセラーを「信じる」ような態度を取っていたとしても、それは対等な二人の間で醸成される「信頼」ではなく、信者が教祖に向けるような「依存」や「妄信」に近いのではないかと思います。
この力関係がちゃんと「対等」になり、「信頼関係」へと進んでいくことを目指すのがカウンセリングなのではないでしょうか。
まとめ
「言葉」は道具に過ぎません。
どれだけ包丁の切れ味を高めても、5歳の子どもに包丁を持たせればかえって危ういように、どれだけ素晴らしい言葉でも、その言葉を使う人に十分な想いがなければ「表面的」「きれいごと」と思われ、相手を不快にさせることもあるのです。
その言葉を本当に使うために必要なスキルは、「語彙力」や「トーク力」ではなく、「信頼」です。信頼は一朝一夕で得られるものではなく、日々の積み重ねが必要です。
言葉で何とかしようとするのではなく、毎日「おはよう」と笑いかける…それだけでも「この人はどんなときでもあいさつしてくれる」とポジティブな評価につながります。そんな評価を積み上げていくことで「信頼」は育まれていきます。
「効率化」が求められる時代、「信頼」を地道に築くことは「無駄」に思われるかもしれません。「人なんて信じても無駄」と切り捨てた方が「効率的」ではあります。
しかし、そういう地道で面倒な「信頼」を築くことで得られるものの大きさや尊さを、臨床心理士をはじめ、心理に携わる人は理解している必要があるのではないかと思います。

多くの場合、カウンセリングにやってくる方は本人や家族が「効率化」や「合理性」に疑問を抱えて苦しみを抱えた方だと思うので。
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