「好き」の裏側にあるモノ思考 ストーカー・虐待・DV・セクハラなどから考える

雑記

「好き」という言葉はとてもポジティブに感じます。

だけど、全く知らない人に「あなたが好きです」と言われてもポジティブでいられますか?「なんか怖い…」と感じる人も多いのではないでしょうか。

必ずしも「好き」はポジティブではないのです。

「好き」の裏側には、自己本位に相手を「モノ」のように考える思考が潜んでいます。今回はそんな話をしてみたいと思います。

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「好き」になる理由

私たちが何かを「好き」になる理由は基本的に「自分の欲求を満たしてくれること」に尽きます。

赤ちゃんはママが大好きです。でもそれは快感情を与えてくれて、不快感情を取り除いてくれるからにすぎません。泣くことでミルクがもらえ、おむつを替えてもらえ、寝つくまで抱っこしてもらえる。

「好き」にならない理由がありませんよね。

逆にママは赤ちゃんの笑顔などで、求められている感じや認められている感じを受け取ることができるからこそ、育児を頑張っていけるのではないでしょうか。

「好き」になる理由はたくさんあると思いますが、物理的・心理的に何かを与えてくれることが絶対条件だと思います。

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「好き」に答えてもらえないとき

「好き」の表明に「無関心」で返されるとストーカーが生まれる?

赤ちゃん側に何らかの理由があり、笑顔などを見せてくれない

あるいはママの方に何らかの理由があり、赤ちゃんの笑顔を受け取る余裕がない

などの場合は、お互いが「好き」になれず、産後うつや、ひどい場合には虐待が発生してしまうように思います。

「好き」が本当に通じ合うにはお互いに余裕が必要で、片方だけが「好き」をぶつけても意味がないのです。

「好き」をどれだけぶつけても、何も返ってこないのは非常につらいことです。

マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」という言葉は有名です。

いじめなどでもよく「無視」という方法が取られますよね。暴力などより肉体的には楽なはずなのに、無視は精神的に激しい苦痛を与えます。

なぜなら、無関心や無視は「自分」という存在を全く認めてもらえていないからです。どこにも所属できず、誰にも認められない、というのは苦しいものです。

だからこそ、どれだけ引きこもっている人でも匿名掲示板やSNSでだれかとつながっているのです。

最初は「自分が好きなだけでいい」と思っていても、途中で「これだけ好きなのに、どうして相手は好きになってくれないの!?」と怒りに変わってくることもあります。

そういった時に、ストーカーは発生するのです。無視されるよりは嫌われた方が嬉しいのです。

「好き」によって人がモノ化されることで虐待やDVが起こりうる

最初に挙げたように一方通行の「好き」は相手に恐怖すら与えます。

それは、「好き」の裏側に人をモノ化しようとする思考が見え隠れするからです。

モノ化とは「自分の期待する機能を果たすモノとして見る」ということ。

さきほどの赤ちゃんとママの例では

ママ→赤ちゃん:快を与え、不快を取り除く

赤ちゃん→ママ:笑顔、承認

のように、お互いにwin-winの関係が築かれていました。しかしどちらかが与えるのをやめた瞬間にこの関係は壊れてしまう危険性があります。

「好き」を表明することは、その人に対して何かを求めていることに他なりません。

それは、付き合いたい、深い関係になりたい、認めてほしい、愛してほしいなど目に見えないものかもしれませんし、顔や年収、身長などのスペック部分かもしれません。

そこは人それぞれだと思うのですが、全く何も求めないことはないはずです。求めないのであれば「好き」だと伝える必要もないのですから。

「好き」の入口はそういったモノ化であったとしても、相手を尊重する気持ちを持ち続けて向き合うことで、関係を深めていきます。

でも、モノ化思考から離れられない人もいます。

「好き」になったのは、自分の思い通りになる「モノ」としての相手であって、相手の自由意志を認められない人です。

こういった人は、それこそ壊れたテレビを叩いて直すように、身体的・精神的暴力によって支配を行おうとします。

それが虐待やDVです。

「好き」を拒絶されるリスクを取らないセクハラ

セクシャルハラスメント、通称セクハラの問題がよく取沙汰されています。

セクハラは相手のモノ化が「好き」よりも先に起こるという点で、他の行為とは少し異なる様相を見せます。

セクハラをする側とされる側には力関係があります(他のハラスメントでもそうですが)。力関係があると必然的にモノ化が起こりやすくなります。

上司と部下を想像してもらえばわかりやすいのですが、上司が「ここはこうしろ」と言えば、大抵の部下は「はい、わかりました」と言って指示を遂行するのではないでしょうか。

指示通りに動くことを前提とする姿勢は、人間のモノ思考に他なりません。

そのため、セクハラではモノ化が先に起こっているのです。

しかし、セクハラをする側は自分が相手をモノ化していることに気づいていませんから、「嫌なら言ってくれるだろう」とさも相手の自由意志を尊重しているつもりでいます。

だからこそ、いざセクハラを訴えられると「嫌なら言ってくれればよかったのに」など、周囲から見ると荒唐無稽と思われることを言い出すのです。

お互いを尊重する気持ちを忘れない

単に「好き」なだけでは、相手をモノ化しているのだということを延々と話してきました。

それを乗り越えるためには結局のところ、「お互いを尊重する気持ちを忘れない」という当たり前っぽいことが大切だと感じています。

なんでこんな当たり前っぽいことが難しいかといえば、日本には年功序列や男尊女卑など、さまざまな相手をモノ化しうる歪みが底の方でよどみ続けているからです。

そんな枠組みにとらわれることなく、相手の在りようを尊重することが、「好き」とかどうのこうの以前に、人間として大切なんじゃないかなと思います。

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